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文久2年閏8月14日(1862.10.7)
【京】天皇の「公武一和の思召」が公卿・堂上に触れられる/
在京長州藩要路、近衛関白に攘夷に関する朝議の確定を迫る/
【江】前京都所司代酒井忠義に隠居の幕命/
宇都宮藩主戸田忠恕に山陵修補御用掛に
【水】清河八郎、幕府に上書を書くため水戸を去る

■松平容保の守護職就任
文久2年閏8月14日、会津藩会津御用所は、江戸御用所に書簡を送り、京都守護職の職権強化(「格別ニ御威権之御沙汰」)の周旋に尽力するよう求めました。

書簡(『会津藩庁記録』一p44)のポイントは以下の通り
(容保は)この度守護職を命じられたからには、「兼而(京都を)御警衛之方々ハ勿論、中国西国之諸大名方、事ある節は、万事御家之節度ニ被随候様」にとの台命が下るようにしてほしいと考えておられた。
先だって(容保が幕府に)「御内存之次第」を話された際、(容保に)「凡而■(こん)外之権」を委任し、「諸家之野心暴発仕候ハゝ、速ニ為御征伐人数取進」めるよう、「(京都守護に当る諸大名の)九家之面々」へも前以て命じてほしいと言われたと聞く。
そうしたところ、永井主水(=永井尚志)より「被仰立候通り相成筈」と「御挨拶」があったと聞く。
従って、この件を含めた(容保の)「御存念」につき、京都へ出発するまでには御沙汰があるだろう。
「斯ル御大任」(=守護職)を命じられたからには「格別ニ御威権之御沙汰」がなくては「必至と御勤」が「行届」かない
「其表」(=江戸)では如才なく尽力されていることだろうが、どのような状況なのか、


■勅使大原の東下
【京】文久2年閏8月14日、孝明天皇の「公武一和の思召」が公卿・堂上に触れられました。

閏8月6日に帰京した勅使大原重徳【おおはら・しげとみ】の復命についての触れであり、その大要は<勅使をもっておおせ出された事項については、幕府はどれも遵奉し、また、以後、天皇の御意思を奉載し、公武一和・万民安堵の処置を講じ、天皇のお心を安んじるつもりであると言上している。旧弊は急速には改め難い事情もあるので、暫く御猶予遊ばされる思召である>(『徳川慶喜公伝』意訳ヒロ)というものでした。『徳川慶喜公伝』では、これを「近衛関白等が薩藩と相応じて、公武合体論を維持する結果なり」と解説しています。

関連:■テーマ別文久2「勅使大原重徳東下」 「公武合体派勢力の後退と島津久光の退京」薩摩藩日誌文久2年

<ヒロ>
在京の公武合体派(近衛忠煕中心)は島津久光の帰京を待って、巻き返しをはかったわけですが、尊攘激派も活発にロビー活動を行っていました。(尊攘激派は久光の建白中の「匹夫の激論一切御採用あるべからず」という一説に激怒し、久光をひどく憎んでいたとか・・・)↓

【京】文久2年閏8月14日、在京長州藩要路は、関白近衛忠煕邸に向かい、破約攘夷に関する朝議の確定を迫る建白書を提出しました。

関白邸を訪ねたのは益田右衛門介、高杉小忠太、宍戸左馬介、周布政之助、中村九郎らでした。建白書の大意は<破約攘夷の叡慮は不動であるのに、攘夷の国是に疑いをお持ちかと忖度する者がいる。しかし、敬親父子はこれまでの勅諚及び沙汰書の趣意は全く破約攘夷の叡断であると思っており、叡慮の達成・っ久世の確立のために断然独力をもって尽力する覚悟である>(意訳ヒロ)というものでした。

関連:■テーマ別文久2「長州世子毛利定広奉勅(大赦)東下

■所司代人事
文久2年閏8月14日、前京都所司代酒井忠義【さかい・ただあき】に隠居の幕命が下りました。

<経緯>
酒井忠義は安政の大獄時にも所司代であり、また公武一和のための皇女和宮降嫁にも奔走しました。こ尊攘激派からは大変憎まれており、京都で勤務を続けることが困難になっていました。このため、文久2年6月30日、幕府は酒井忠義を罷免しました(こちら)。その後、幕府は朝廷に対してこれまでの「失政」を陳謝し(こちら)、8月16日には前老中安藤・久世を隠居・急度慎を命じていました(こちら)。酒井も所司代時代の「罪」により、処分を受けたのでした。

関連:■テーマ別文久2「京都所司代人事」違勅条約&安政の大獄関係者の大赦と処罰」 ■「開国開城」戊午の密勅と安政の大獄 公武合体策と和宮降嫁

■山陵奉行
文久2年閏8月14日、幕府は宇都宮藩主戸田忠恕に山陵修補御用掛(山陵御締向御普請御役)を命じました。なお、幕府は、忠恕は14歳と若年のため、家老間瀬和三郎(のち山陵奉行となった戸田忠至・大和守)に実務を担当するよう命じています。

宇都宮藩は閏8月8日、幕府に山陵修復の建白を行い(こちら)、10日、幕府は建白を採用していました(こちら)

■清河八郎
文久2年閏8月14日、清河八郎は、幕府への上書を認めるために閑かな処へ移ることを決め、水戸を出立することにしました。

住谷寅之助は清河を見送るために一緒に出掛け、途中祝街の相模屋に至りました。そこで飲食した後、16日に再び来るので他へ移らないよう言い残して帰りました。(「潜中紀事」)

関連:■清河/浪士組日誌文久2@衛士館

参考>『続再夢紀事』、『徳川慶喜公伝』、『維新史』、『清河八郎遺著』(2004.10.7、10.21)


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